子どもが主役の幼稚園 子どもが主役の幼稚園
2025年4月の聖書のことば
あなたがたは神に愛されている子供です。
エフェソの信徒への手紙5章1節(新約聖書 357ページ)
 
 上記の言葉には続きがあります。「1:あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。そしてその先の方の8節には、「8:あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。
 「光の子として歩みなさい」は徳育幼稚園の標語聖句です。「光の子」ですから、自分が輝くのではありません。光源は神の愛です。私たちはその愛の光に照らされて、それを世の闇に反射する者となるために、「8:主に結ばれて、光となった」のです。
 さらに「9:光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」。「13:すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」。これらの言葉は、「光の子」には世の闇を照らし出す務めがあると語っています。
 18世紀のイギリスで信仰覚醒運動を起こし、メソジスト教会の開祖となったジョン・ウェスレーは「キリスト教は本質的に社会的宗教(social religion)である」と言いました。当時は産業革命の嵐の中で、社会を明るくするのは人間の理性であり、科学が万能だと言われ、宗教は軽んじられていました。しかしウェスレーは、理性に啓示の光を与え、本当に成熟した文化となるために、宗教は不可欠であると言いました。そういう思想を背景に「キリスト教は社会的宗教である」と言ったのです。キリスト教こそが、社会の闇に光を放つべきであるとの主張でした。
 「コンプライアンス」という言葉をよく聞きます。「法令遵守」と訳されます。法令を遵守するのは当たり前だが、それがなされていない場面が多々ある。たとえば老舗の料亭が客の食べ残した天ぷらを、そのまま次の客に出していたことが分かったり、使用原料や賞味期限を偽装して食品を売るケースが相次ぎました。
 法令を守るべきとは思いつつ、誰も見てないし、気付かれなければいいだろうと考える人間の心に、いやそうではない、たとえ誰も見ていなくても決めたことは守らなければ行けない、という強い倫理意識を訴えるのが「コンプライアンス」です。
 その倫理性を支えるのは、見えざる神への信頼と恐れです。聖書が言う「13:すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」という事実を伝える責任が、教会とキリスト教にあり、それが社会全体の底支えとなっていくのだと思います。
 でもそれは悲壮な使命感を持って行うことではなく、「1:あなたがたは神に愛されている子供ですから」という前提があるから出来るのです。人は愛されただけしか愛せないと言います。親や社会の愛情を受けずに育つ子供も、残念ながらあります。でも人に愛されなくても、「神に愛されている子供ですから」という前提があります。
 「ですから、神に倣う者」となって、「光の子として歩み」たいと願います。
 新年度も「神に愛されている子供」同士として歩みましょう。    園長 大村 栄