子どもが主役の幼稚園 子どもが主役の幼稚園
                            8月の聖書のことば
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
            マタイによる福音書18章20節(新約聖書35ページ)
 
 「二人または三人がわたしの名によって集まる」とはいったい、何のために集まるのでしょうか。直前の19節にあります。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。「二人または三人」が集まるのは「天の父」である神に「願い事」(祈り)をして、それをかなえていただくためなのです。ではそれはどんな祈りなのでしょうか。
 さらにその前の18節には、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、、天上でも解かれる」とあります。「つなぐこと」と「解くこと」は家畜に関係ある言葉で、家畜を拘束することと解放することです。解放するとは自由にすること。拘束は自由な行動をゆるさないことです。
 つまり「解くこと」は<ゆるすこと>、<自由にする>ことであり、「つなぐこと」は<ゆるさない>ことなのです。しかもそれが「地上」だけでなく死後の世界「天上」でも継続するなら、私たちの未来に関する重要な選択になります。
 
 教会の葬儀において捧げる最も大事な祈りは、亡くなった方の「罪の赦し」です。「火葬前式」において、私は故人の棺の傍らに立ち、聖書を読んで祈ります。
 「どうか、平和の神御自身が、あなたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(テサロニケの信徒への手紙一5章23節)。
 生前にどんな過ちを犯した人でも、最期の祈りにおいて、「全く聖なる者」としていただき「非のうちどころのないもの」としてゆるされ、解放されるのが、「二人または三人がわたしの名によって集まる」という教会の祈りの力です。教会が「心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」のです。
 その祈りが天の父なる神に届くのは、主イエス・キリストの仲介があるからです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし(キリスト)もその中にいる」からです。
 可愛い子供たちのお祈りの最後をご存じですよね?
  「このおいのりを、イエスさまのおなまえによって、かんしゃしておささげいたします。アーメン」。
 
                  園長 大村 栄